繭佳の日記
繭佳の日々是好日
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物語の定義
如何に情報共有出来るか
作者の意図が読者にどの程度伝わるか
伝わらなくても、読後に対する感想の数がその作品の価値を決めるものだと思う
観て「何も無いもの」はその時点で「失敗」していると思うのだが、どうだろうか
まぁ実際、「何も感想を抱かない」というのはありえない、というのは理想論だ
よく「質問はありませんか」と、説明する側は最後にくくる
ある程度想定されたものであれば良いが、本当に無いときは、根堀葉堀考えないといけないし
あらゆる視点で物事を視なければいけない
その行為、自体が面倒臭い、今日この頃なのか
珍しく
「なにもありません」
だなんて感想を書いてしまった
いや、言いたいことはいくらでもあったのだが
作中の「なにもありません」という張り紙に目が行き、そのまんま
そうなった
実際、物の価値だとか、名前=アイデンティティだとか、そういう存在論に傾倒するのであれば
そちら側で掘り下げてゆけばよいものを、中途半端に観測して放り投げられた
「この人には薬でも、あなたには毒になるかもしれません」
まったくもってその通りです
処方箋は、視てもらった人間にしか意味をなさないもの
つまるところ用法・用量を正しくお守りください、と(違
まぁ、ところてん
情報共有が中途半端なものは観ていて疲れるというのは事実である
役者のイメージするものと、演出のイメージするものの齟齬が埋められていないと、よく起こる
結局、その役を演じる、そのシーンで何を思っており、どうしてその行動を取るのか、伝わらなければ
意味が無い。考えろ、といわれても、情報が足り無すぎる
その時間内に収め、回収しなければ、ついてこれない
まして「どうしてそうなるのか」考えさせるほど、引き込む魅力が無ければ特にだ
特に、ここ最近は作者、もしくは脚本家の中で簡潔されて、表現が著しく不足しているものが多い
一番わかりやすい例が、ちょっと古いが「少林少女」、何もかも必然性が無く、説明もされてない
ただいえることは、柴崎コウに割と流行ってた少林をやらせてみて、ハチャメチャにしたら面白いんじゃねぇ、という勢いのみ
エンターティメントなんだから、意味を求めたら負けなのかも知れんが、娯楽として完成(完結)させてから、世に出そうぜ、と
「なにもありません」に戻るけれど
たいてい「なにかあるだろう?」てのが教育者の弁だ
「なにも無いことは無いだろう」と叱責してくるのだ
お前は「何も感じなかったのか!」と
不感症だ、なんだを言う気は無いが、意図的に「感じない」といけないのだろうか?
息をするのに意識をしないのと、同義で
意識して「感じない」といけないものってどうなのか
冒頭に戻る
まぁ面倒くさいといいつつも、あれやこれや作中に散りばめられた要素、伏線、単語を
それぞれを分析し、まとめ、再考していくわけだけど
出た答えが「なにもありません」ってのはどうだ
最初に出た「何も感じなかった」という感想と、再考後の「なにもありません」という答えは同義なのだろうか?
で
これって結局、物語に対する感想であって
演技に対する感想ではないよね、と
演技?つまりそれらをひっくるめて・・・・
なるほど、違和感というか靄がだいぶ薄れてきた
やはり視点の問題なのは事実である
物語の感想と、芝居への感想と、舞台への感想と、アンマッチが起きているのだ
演出のイメージと演者のイメージが一致していない、それに尽きる
演者の上手・下手は些末なことだと思うけれど
その尺内で伝えられなければ失敗だろう
下手なら、下手なりに引き込み方があるだろうし
何より、感情が伝わってこないのは問題だろう?
活舌が悪いだとか、台詞が飛ぶだとか、かむだとかは、些事なはずだけど
何が言いたいか、その演者から伝わってこないのは問題だろう
とりあえず、広島の夏で、その展開は、一点にしか収束されない・・・・・
作者の意図が読者にどの程度伝わるか
伝わらなくても、読後に対する感想の数がその作品の価値を決めるものだと思う
観て「何も無いもの」はその時点で「失敗」していると思うのだが、どうだろうか
まぁ実際、「何も感想を抱かない」というのはありえない、というのは理想論だ
よく「質問はありませんか」と、説明する側は最後にくくる
ある程度想定されたものであれば良いが、本当に無いときは、根堀葉堀考えないといけないし
あらゆる視点で物事を視なければいけない
その行為、自体が面倒臭い、今日この頃なのか
珍しく
「なにもありません」
だなんて感想を書いてしまった
いや、言いたいことはいくらでもあったのだが
作中の「なにもありません」という張り紙に目が行き、そのまんま
そうなった
実際、物の価値だとか、名前=アイデンティティだとか、そういう存在論に傾倒するのであれば
そちら側で掘り下げてゆけばよいものを、中途半端に観測して放り投げられた
「この人には薬でも、あなたには毒になるかもしれません」
まったくもってその通りです
処方箋は、視てもらった人間にしか意味をなさないもの
つまるところ用法・用量を正しくお守りください、と(違
まぁ、ところてん
情報共有が中途半端なものは観ていて疲れるというのは事実である
役者のイメージするものと、演出のイメージするものの齟齬が埋められていないと、よく起こる
結局、その役を演じる、そのシーンで何を思っており、どうしてその行動を取るのか、伝わらなければ
意味が無い。考えろ、といわれても、情報が足り無すぎる
その時間内に収め、回収しなければ、ついてこれない
まして「どうしてそうなるのか」考えさせるほど、引き込む魅力が無ければ特にだ
特に、ここ最近は作者、もしくは脚本家の中で簡潔されて、表現が著しく不足しているものが多い
一番わかりやすい例が、ちょっと古いが「少林少女」、何もかも必然性が無く、説明もされてない
ただいえることは、柴崎コウに割と流行ってた少林をやらせてみて、ハチャメチャにしたら面白いんじゃねぇ、という勢いのみ
エンターティメントなんだから、意味を求めたら負けなのかも知れんが、娯楽として完成(完結)させてから、世に出そうぜ、と
「なにもありません」に戻るけれど
たいてい「なにかあるだろう?」てのが教育者の弁だ
「なにも無いことは無いだろう」と叱責してくるのだ
お前は「何も感じなかったのか!」と
不感症だ、なんだを言う気は無いが、意図的に「感じない」といけないのだろうか?
息をするのに意識をしないのと、同義で
意識して「感じない」といけないものってどうなのか
冒頭に戻る
まぁ面倒くさいといいつつも、あれやこれや作中に散りばめられた要素、伏線、単語を
それぞれを分析し、まとめ、再考していくわけだけど
出た答えが「なにもありません」ってのはどうだ
最初に出た「何も感じなかった」という感想と、再考後の「なにもありません」という答えは同義なのだろうか?
で
これって結局、物語に対する感想であって
演技に対する感想ではないよね、と
演技?つまりそれらをひっくるめて・・・・
なるほど、違和感というか靄がだいぶ薄れてきた
やはり視点の問題なのは事実である
物語の感想と、芝居への感想と、舞台への感想と、アンマッチが起きているのだ
演出のイメージと演者のイメージが一致していない、それに尽きる
演者の上手・下手は些末なことだと思うけれど
その尺内で伝えられなければ失敗だろう
下手なら、下手なりに引き込み方があるだろうし
何より、感情が伝わってこないのは問題だろう?
活舌が悪いだとか、台詞が飛ぶだとか、かむだとかは、些事なはずだけど
何が言いたいか、その演者から伝わってこないのは問題だろう
とりあえず、広島の夏で、その展開は、一点にしか収束されない・・・・・
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